JRRCマガジンNo.185 塞翁記-私の自叙伝6

半田正夫

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JRRCマガジン No.185   2019/11/21
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こんにちは。
半田先生のコラムは自叙伝「塞翁記」。多くの反響をいただいており嬉しい限りで
す。
長らく著作権に係わっている方は良くご存知だと思いますが、
半田正夫先生は昭和45年現行著作権法が制定されて以降数多の著作権法改正に尽力さ
れ、
著作権法コンメンタール等も執筆されている、現行法を語る上では欠かせない人物の
ひとりです。
著作権思想の変遷においてまさに「その時」を生きてこられた貴重な経験を沢山され
ています。
今回は中学時代ということでお話はまだまだ続きますが、先生のお人柄が浮かばれる
エピソードと合せてお楽しみください。

前回までのコラムはこちらから
⇒https://jrrc.or.jp/category/handa/

◆◇◆半田正夫弁護士の塞翁記-私の自叙伝6━

第2章  中学生時代

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◆中学時代のクラスメイト

終戦になってわれわれは虚脱状態に陥った。
学校には行くものの、戦時下に作られた教科書は全部使用が禁止あるいは墨で消され
ることが強制されたため、教師は教えることもできず、休講が多かったのを覚えてい
る。
私は図書部に入っていたので、ほとんどの時間、図書室で過ごしていたようである。
図書室にいるといっても本を読んでいたわけではなく、友人とだべったり、ぼんやり
と校庭を眺めていた記憶だけが残っている。

親友はいた。ひとりは杉村嘉一郎といった。中学2年のときに隣の席に座っていたこ
とで仲良くなったものである。
彼が虫垂炎で入院したときに見舞いに毎日通って親しくなり、それが親御さんの好印
象を得たようで、退院後も彼の家に遊びに行ったものである。
彼の父親は日本発送電株式会社の北海道支店長をしていた。日本発送電は戦時中に国
策により全国の電力会社が合同されてできた会社であり、
戦後間もなく進駐軍の命令により解体され、北海道支店は北海道電力に生まれ変わる
ことになるが、その直前に支店長をしていたのが彼の父親ということになる。
いまでいえば北海道電力会社の社長にも当たる人物であったことになる。彼の家は会
社の社宅であったが、札幌市の西の閑静な住宅地にひときわ大きく立つ洋館であっ
た。
長屋住まいの私にとっては別世界の趣があった。彼の祖父は旧制一高の出身、父は慶
応の経済の出身であった。ひとりいた姉は日本女子大出の才媛であった。
当時、女子で大学に行く家庭は北海道ではきわめて稀であったので、かれの家庭は教
育水準のすこぶる高い家庭であったようである。

もう一人の親友は縣功(あがた・いさお)といった。彼の実家は札幌市内の中央にあ
る大きな質屋で、彼の家も広壮な和風の建物であった。
父親の書斎にはたくさんの本があり、そのほとんどが手つかずのまま保存されている
ようだった。
彼の家に遊びに行くたびに私は漱石の岩波文庫本を1冊借り出して読んだものであ
る。
彼はのちに東北薬科大学に進み、たしか道内の薬科大学の教授になったが、10年ほど
前に亡くなったとの連絡を夫人から受けた。

◆家の手伝い

父の職業は司法書士であった。職業柄、筆を使って字を書かなければならないから、
重たい物を持つと手が震えるということで、肉体労働はほとんどしなかった。
北海道は雪が降るので、玄関の前の除雪や石炭運びなどの日課は長男である私の仕事
になることが多かった。
これらの仕事は骨の十分固まらない少年でもなんとかこなすことができたが、弱った
のは屋根の雪下ろしである。
降ろすだけなら下に抛るのでなんとかできるが、降ろした雪を片付けるのはかなりの
力仕事で往生したものであった。
終戦の翌年であったろうか、私が中学2年のころ、大雪のため石狩湊に水揚げされた
ニシンを運ぶ道路が塞がれてしまったので、各隣組から1名が除雪作業に出るように
命じられたことがあった。隣組の班長であった父は班内の各家に希望者を募ったが、
応募者はなく、そのためやむなく私が引き受けざるをえなかった。当日、スコップを
持って迎えのトラックに乗せられた私たちは、向かった先で数メートルの間隔で並ば
せられ、高さ2メートル、幅3メートルほどの除雪を一人ですることが命じられたの
である。まわりの作業員はすべて復員帰りの屈強な旧軍人であり、なんなく仕事をこ
なすのであるが、私はいくら頑張っても彼らの半分ほどの仕事しかできないありさま
だった。見かねた両隣の作業員が私のノルマ部分を手伝ってくれたおかげで、なんと
か終了することができたのである。その日の日当はカネではなく、ニシン1箱分の無
料券であった。その日の夕飯は私の稼いだニシンが食卓をにぎわしたのはいうまでも
ない。

中学3年のころ、私は父に頼まれて裁判所構内にある登記所で、登記簿謄本の作成を
行ったことがある。
たしか札幌ビールの数百筆に及ぶ不動産の登記簿謄本が必要であるということで、本
来ならば依頼を受けた父が謄本交付申請書を登記所に提出し、
登記所がこの謄本を作成して交付されるという手はずが採られるはずであったが、現
在のようなコピー機器が存在しない時代であったから、
登記所の役人が手書きで登記簿から写し取らなければならないのであり、数百筆とな
るとかなりの人手と時間を要する仕事ということで後回しにされるおそれがあった。
ところがこの謄本は急ぎ必要ということで、窮余の一策として、申請者側がこれを作
成し、登記所が登記簿と読み合せたのち、これに印鑑を押すという方法が採られたの
である。
札幌ビールから1名職員が派遣されてきて筆写の仕事に従事したが、到底間に合わな
いということで私に出番が回ってきたのである。
ちょうど夏休みということでヒマのあった私は連日登記所に通い、登記簿からの筆写
という仕事に携わったのである。
仕事が全部終わったとき、サッポロビール会社からお礼としてビールがたくさん送ら
れてきた。
未成年の私は飲むことはできなかったが、うれしそうな顔をした父の顔をいまでも忘
れられないでいる。

つづく
次回は高校時代に入ります。

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