JRRCマガジンNo.171 塞翁記-私の自叙伝1

半田正夫

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半田正夫弁護士の「塞翁記-私の自叙伝」 第1回
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これまで著作権談義「著作権の泉」をご寄稿いただいていた半
田先生のコラムの新連載がスタートいたします。
ご自身の半生を振り返る内容で、著作権法の第一人者となるま
での数々のエピソードを語っていただきます。
第1回は、半田先生の小学生時代から始まります。当時の札幌
市内の尋常小学校の様子も伝わってきます。どうぞお楽しみく
ださい。

◆◇◆半田正夫弁護士の塞翁記-私の自叙伝━━━━━━━━

第1章 小学生時代

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はじめに
人間万事塞翁が馬という故事がある。昔、中国の北辺に住む
老人(塞翁)の飼っていた馬が逃げて嘆いていたところ、その
馬が駿馬を引き連れて帰ってきた。息子がその馬を乗り回して
いたところ、落馬して大怪我をしてしまった。不運を悲しんで
いたが、たまたま隣国と戦乱が起き、出征を免れた息子は命を
長らえることができた、という話から、人間の幸福と不幸とは
あざなえる縄のごとくに交互にやってくるという言い伝えであ
る。私の人生もまさにこのとおりで、いいことがあれば、必ず
そのどんでん返し悪いことが起き、それで悲観していると、い
い方向に向かうという繰り返しであることがわかる。
このような人生を書き留めることも意味のあることかもしれ
ないと考えて、主として教え子を中心にわずかな人を対象とし
て、Facebookに「八十路ジジイの自分史」と題して雑文を書き
始めたのはいまから1年ほど前である。それがたまたま瀬尾太一
氏の目にとまり、本誌に載せることになった。忸怩たる思いも
しないでもないが、このような生き方もあるのだということを
知ってもらうのもいいかもしれないと喜んで引き受けることと
した。なお、掲載に当たって原文に大幅に手を加えることとし
たことをお断りしたい。

半田正夫 昭和8(1933)年1月3日 半田 嵐、美津の
3人姉弟の長男として札幌に生まれる

第1章 小学生時代

小学校入学のころ
札幌の春は馬糞風とともにやってくる。
車社会が訪れる以前の札幌の冬の運送手段はもっぱら馬橇に
委ねられていた。馬は生き物であるから当然排泄物をところか
まわずに出す。馬主はそれをいちいち始末をすることなく、天
然自然に任す。つまり降る雪がそれを覆い隠してしまうのであ
る。しかし、やがて雪解けの季節が来ると、雪の中から馬糞が
顔を出し、これが乾燥して春風とともに舞い上がる。これが札
幌名物の馬糞風であった。この風を受けながら、市民は春の到
来を実感し、長い冬ごもりから脱却するのが常であった。
馬糞風の舞う昭和14(1939)年4月、私は札幌市のほぼ真ん中
にある西創成尋常小学校
1年生として入学した。時代は中国との戦争が始まって2年後で
あり、この年にナチス・ドイツによるポーランド侵攻が行われ
て第二次世界大戦が勃発するという暗鬱な空気に包まれていた
頃であった。そのためか、入学式の当日はどんよりした空模様
であったように記憶している。式場に当てられた屋内運動場は
紅白の式幕に包まれていたが、式幕の上に顔を覗かせていたの
は、褪色していて判然とはみえなかったが、ずらっと並べて掲
げられた一連の複製画であった。後年、東京青山にある明治記
念絵画館でこれのホンモノに出会い、明治天皇の一代記を表し
た絵の複製であったことを知るのである。
古ぼけた教室の木製の机の上には「ハンダマサオ」と書かれ
た小片が貼ってあり、ここが私のささやかな城となった。当時、
「修身」のテキストのみは支給されたが、「国語」「算数」な
どのテキストは自費で購入しなければならなかったようである。
「修身」とは道徳を教科内容とするもので、冒頭に教育勅語が
載っており、親の言いつけをよく聞くこととか、兄弟仲良くす
ることなどが教えられる内容となっていた。とくに記憶に鮮明
なのは、「キグチコヘイハ シンデモ ラッパヲハナシマセン
デシタ」という記述であった。日清戦争の折、木口小平という
ラッパ手が突撃命令を受けて真っ先にラッパを吹きならして突
撃したが、敵弾に撃たれたにもかかわらず、苦しい息の下から
吹き続け、死んでもラッパを口から離さなかったという軍国美
談を扱ったものであるが、そこには敵弾に当たってのけぞりつ
つラッパを吹き鳴らす壮絶な木口一等卒の姿が描かれていた。
私の脳裏には、真っ赤に血に染まった兵士の姿が焼き付いてい
たが、これも後年、松本市の開智学校を訪れた際に当時の教科
書を見る機会に恵まれたが、そこには白黒の挿絵が載っている
だけで、カラーではなかったことを知り、モノトーンであって
も子どもの脳裏にはカラーで印象付けられるものだということ
が分かったしだいであった。子どもには豊かな想像力があるの
だから、与えられる素材も単純なものでもよいのであって、決
して豪華絢爛たる意匠とデザインで表現されている必要はない、
むしろそのほうが空想力を広がらせる要因になるのではないか
と痛感させられる。
入学当初、おそろしいと思ったことが3つあった。まずその
1は、朝礼の終わった上級生が歩調をとって教室に戻るその足
音が、遠くから地鳴りがしだいに近づくようなオドロオドロし
い響きに聞こえて脅えたことである(当時、1年生は朝礼に出
ることが免除されていた)。その2は、教室から屋内体育館に
向かう近道の途中に理科室があり、そこに陳列されている人体
骨格標本、つまり骸骨の標本はわれわれが傍を通るとカタカタ
と動いたことである。その横を通らなければならないときは小
走りになり、目をつぶって通るのを常とした。その3は、教室
の横に地下の石炭倉庫に行く階段があり、その先が真っ暗にな
っていて、あたかも地獄の入口が口を開けて待っている感じが
したことである。いたずらをしたらそこに入れると教師が脅し
たが、学校というところは怖いところだとなあと思ったのが、
学校の第一印象であった。
当時のクラスメイト全員の集合写真が手元にある。総員60名。
現在の小学校のクラスでは30名そこそこだとすると、実に2倍以
上の過密ぶりだ。しかし、これが当時の小学校の平均値ではな
かったか。セピア色のこの写真には、金持ちのお坊ちゃん風の
スーツ着用の者もいれば、私のように学生服で金ボタンの者も
おり、頭も坊主刈りの者もいれば、長く伸ばした者もいるとい
う状況で、まだ戦時色がそれほど濃く現れてはいない時期であ
ったことがよくわかる。
1学年は男女それぞれ3学級、それが6年生まであるのだから、
総計で2100名ほどの児童が1つの学校にいたことになるが、そ
れは当時の札幌の小学校の典型であったようである。
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