JRRCマガジンNo.214 塞翁記-私の自叙伝16

半田正夫

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JRRCマガジン No.214 2020/8/27
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みなさまこんにちは。
先日は夏休みが終わったというようなことを言ったばかりですが、
既に、日本で一番最初に秋が訪れると言われている北海道大雪山系の黒岳では紅葉前線がスタートしています。
秋の訪れは例年並みとのことで、年々季節の変化をグラデーションで感じることが出来なくなっていることは、とても残念に思います。

さて、今回は半田先生の塞翁記です。
先生は大きな勝負をかけた行動に出ます。
このコラムを読まれている方は大学などで研究職に就かれている方も多くいらっしゃいますが、
外からでは中々分からない、研究職のいわゆるキャリアの作り方も興味深いところであり、
普段の温厚なお人柄からは知り得ないような、フロンティア精神に溢れた部分を感じる回です。

前回までのコラムはこちらから
https://jrrc.or.jp/category/handa/

◆◇◆半田正夫弁護士の塞翁記━━━━━━
           -私の自叙伝16

   第7章 北海学園大学時代
        
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■そのころの私

前にも述べたように、北海学園大学の法学部は昭和39年に新設されたが、その設立と同時に私は専任講師として赴任した。
できたばかりの学部であることから、専任のスタッフは10名足らずであり、その中には他大学を定年退官した老教授が3名ほど含まれていたから、
講義そのものは北大その他の大学から非常勤講師として応援をしていただき、なんとかこなせることができたが、
学部内の諸業務はすべてわれわれ若手の教師数人で処理しなければならず、多忙な毎日を送ることとなった。
しかしながら、新しい学部を作るのだという意欲に燃え、向学心の強い学生を集め、民事法特別研究会(略称、民特研)を立ち上げて毎週一回研究会を開いたり、
ゼミを熱心に行ったりした。これらの学生の中から後年、同大学教授になった者もいる。
 
北海に赴任してマル1年経った昭和40年、助教授に昇進した。
著作権の一元的構成に関する論文が北大法学論集に掲載されはじめたことが昇進の事由になったものと思われた。
助教授になったと同時に2人相部屋であった研究室が単独で使えるようになった。
同室のI氏が上智大学に赴任したこともあるが、昇進したことが最大の理由であったようである。
 
助教授になった私は、個室の研究室が与えられたこともあって、毎日研究室に通い、研究に没頭した。
北海学園の助教授時代の3年間の業績としては、著作権法関係では、著作権の一元的構成に関する論文を補正しながら北大法学論集に5回に分けて連載したことを始め、
「著作権の法的構成と出版」(ジュリスト329号)、「著作物公表権の機能に関する一考察」(北海学園大学法学研究1巻)、
前述の「私的利用を目的とする音楽著作物のテープ録音―西独著作権法53条5項制定の経緯」(北大法学論集17巻2号)、
「蓄音機レコードに関する著作権法改正」(著作権研究1号)、「出版の法理―出版契約に関する実態調査を手がかりとして」(北大法学論集18巻1号)などで、
とくに昭和40年には日本私法学会で「著作権の一元的構成」と題して生まれてはじめて学会発表を行うことになる。

一方、民法関係では、「買主の設計・指図と瑕疵担保」(売買(動産)判例百選)、
「手付の分割交付と倍戻額」(不動産取引判例百選)、「不動産の二重譲渡へのひとつのアプローチ」(北大法学論集16巻4号)のほか、
五十嵐先生に頼まれて先生との連名ではあるが、民法学の大家の先生方に伍して「借地の法律相談」(有斐閣刊)の中の「借地人の代わったときとまた貸し」篇の21項目を担当執筆したことは、
契約法の実務の勉強に大いに役立つことになった。

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   第8章  神奈川大学に転進

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■上京のきっかけ

昭和41年の日本私法学会において「著作権の一元的構成」について研究報告をしたが、その報告をたまたま傍聴していた神奈川大学のC教授から神奈川大学に転職する気はないかとの打診を受けた。
私はかねてより著作権の研究を続けるには新しい情報が手近に入手できる東京をおいてないと考え、いずれは上京したいと熱望していたことと、北海学園大学に就職して4年が経ち、
最初から面倒をみていた法学部1期生が卒業することになって一応の責めを果たしたと思ったことなどから、上京の誘いに前向きに考えるようになった。
恩師の五十嵐先生に相談すると、「君が行きたいのであれば止めはしないが、しばらく待てば、もっといい大学から誘いがあるのではないか」と言われた。

当時、神奈川大学は新興の大学で知名度が低かったことによるものであった。
五十嵐先生の言葉で少し気勢が殺がれたが、C先生からは希望の条件があればできるだけ呑むからと熱心な誘いがあり、
そこで、①月給として10万円いただきたいこと、②宿舎を提供してもらいたいこと、③移転費用を負担してもらいたいこと、の3条件を出し、それを呑んでくれるのであれば赴任するとの返事をC先生宛に送った。
そのころ、私の給与は月1.5万円ほどであったから6倍以上の高額を吹っかけたことになる。世間の相場を知らなかったとはいえ、いま思えば天狗になっていたのかとその厚顔ぶりに顔から火が出る思いがしてくる。
 
当時、神奈川大学は創業者の米田吉盛氏のワンマン経営で、法学部の創設を北海学園大学と同年に果たしていたものの、教授はほとんど実務経験豊かな高齢の元裁判官や検察官で占められ、
若手で戦力になる教員がきわめて少なかったうえに、法学博士の学位を持っている教授が皆無であったことから、私のような人材に興味をもったようである。
「とにかく、会いたいので上京してほしい。」とのことで、往復の航空チケットと宿泊費負担で招待してくれたのである。
当時の航空機はまだプロペラ機で、千歳・羽田間は一日数便が運航されているにすぎず、搭乗客の氏名が新聞紙上に掲載されるという時代であった。
指定された日に大学に出頭した私は、米田理事長兼学長に単独で会うチャンスが与えられた。
後で聞けば、米田氏は学内では神様扱いされていて学部長ですら簡単に会う機会はなく、彼の発言は絶対であるとのことであった。
私を紹介してくれたC教授すら別室で待機させられる始末だったのである。
そのように偉いヒトとは露知らず、ダメもととばかりに私は言いたい放題、自分の希望をあけすけに1時間ほど話して退出した。

その夜は大学前にある理事長の広壮な別宅に泊まった。この別宅は以前米田氏が住んでいたが、別に新居を設けたことで、ここをいわば大学の迎賓館として使用していたもので、
手入れの行き届いた和風庭園を敷地内に収めた純和風の豪邸に私は一人で一泊するという栄に浴したことになる。これもすべて後になって知ったことではあるが・・

■出発前のトラブル

帰札した私宛に追っかけるように神奈川大学から「条件はすべて呑むからぜひ赴任して欲しい」との招請状が速達で届けられた。
当方の要求をすべて呑んでくれた以上、それの応じることが私に与えられた唯一の選択肢となったわけである。そこで臍を固め、北海学園に辞表を提出し、教授会でその了承を得た。
 
そこで、神奈川大学指定の宿舎に家財道具の引っ越しの準備の手はずを整えて、C教授にその旨連絡の手紙を出したところ、折り返し速達の書簡が3月21日に送られてきた。
その文中には意外なことが2件書かれていた。
その1は、学内で1月下旬に民主化闘争が起こり、米田氏は学長を辞任し、工学部教授のT教授が学長に就任したことであるが、
その2は、C教授自身がA大学法学部教授として転出することになったとの知らせであった。
まったく寝耳に水とはこのことで、自分が転出する後釜として私を呼んだものと思われた。

手紙によると、恩師からの話なので断れなかったとか、私が赴任するのと入れ替わりに出て行くのは申し訳ないので、A大学への赴任は1年先に延ばそうと考えたが、A大学には切羽詰まった事情があるのでそれもかなわず、
やむを得ず異動せざるをえなかったことなどを、くだくだしく書き記してあった(これらの理由は全くのでたらめで、彼のほうからA大学に移りたい旨なかば強引に申し入れてきたものであったことが、後日判明するにいたる)。
一瞬茫然としたが、もう賽は振られたのであり、いまさら後に引くわけにはいかなかった。ただ米田氏との約束のことが心配だったので、その点の念押しの速達を出したところ、25日付で返事が返ってきた。

それによると米田氏は目下、入院中のため会って本人に質すことは出来ないが、事務部門のトップのO氏に話したところ、
「本件は異例の扱いではあるが、いったん大学の責任者が約束した以上、たとい責任者が代わったとしても、大学の約束が破られるはずがない。
ましてや、米田氏は大学長の職は退いたものの、理事長としては健在なのだから、理事長としての責任において約束は遂行されるはずだ」
との返事を得たので心配する必要はないこと、私の要望である個室研究室については、助教授以下は2人1室となっており、
現在のところその例外はないが、おそらくその特例が認められるだろうことなどが縷々綴られていた。
 
■鹿島立ち

北海学園大学法学部1期生の卒業式は3月10日、その後は各種送別会や五十嵐先生はじめお世話になった方々へのあいさつ回りなどがあり、27日に引っ越し作業。
30日12時半、日航札幌ターミナル発のバスで、多くの親戚、友人、教え子らに見送られて千歳空港に向かった。
見送り人のなかには、蛯名賢造先生の姿もあった。
蛯名先生は当時、北海学園大学の教授であり、同大付属開発研究所の所長であったが、戦時中は学徒出陣で東大から海軍に入り、
海軍甲事件の当事者である宇垣纏中将の副官として彼の「戦藻録」作成にかかわった人物である。
 
これで、35年に及ぶ札幌での生活に別れを告げたのである。

つづく
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