JRRCマガジンNo.246 塞翁記-私の自叙伝27

半田正夫

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JRRCマガジン  No.246 2021/7/29
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みなさま、こんにちは。
今回の半田先生の自叙伝は、「学校法人執行部の一員として」です。
どうぞお楽しみください。

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◆◇◆半田正夫弁護士の塞翁記━━━━━━
             -私の自叙伝27-
  第16章 学校法人執行部の一員として
        
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◆理事長・院長の交代
常務理事になって1年後に理事長が交代した。新しい理事長は青学の出身者でありクリスチャンでもあったうえ、某大手損保会社の社長でもあったM氏である。
M氏は企業経営で成功した方法で学院の経営を行おうとしたが、いたるところで摩擦が生じ、私はその調整に忙殺されることになった。そうこうするうちに、長年院長の職についていたF氏が健康上の理由により退任することになった。
青学の場合、院長とは、幼稚園、初等部、中等部、高等部、女子短大、大学、大学院、専門職大学院の8つの学校を統括する教学上の最高責任者であり、しかも寄付行為上、クリスチャンでなければならなかったことから、その選考は難渋を極めた。
初めて気づいたことであるが、わが国にはクリスチャンが少なく、しかも伝統ある青山学院にふさわしい人格者であると同時に学識経験を有する人材というのは、そういないということであった。理事長の指示を受けて八方手を尽くして走り回って探したが、やっと見つけた人からは健康上の理由やその責任の重さから固辞され、容易にまとまらないという状態が続いた。
策に窮した理事長は私に対し、クリスチャンに改宗するように強く勧めたが、かりに改宗したところで、院長になりたいばかりに改宗したと誹られるのがおちだし、伝統ある青山学院がにわか信者に乗っ取られるという悪評が立っては本学の名誉にも傷かつくからという理由で、固辞した。そこでやむなく理事長は、院長不在のまま私を院長代行として処遇することとしたのである。

院長代行としての私は、本来院長の職務内容のうち宗教関係を除いた、教学関係の職務を担当するだけでよかったが、前記のように8つある学校の責任者として教学関係のすべての行事に参加しなければならず、多忙を極めた。
とくに大変であったのは、3月から4月にかけて行われる卒業式と入学式において式辞を述べることであった。
16回にも及ぶこれらの式辞について内容がかぶらずに、しかも教訓めいたことを押しつけがましくなく、できれば心に残ることを告げようとすれば、それは大変な苦行であった。
とくに園児の入園式では5~6 歳児向けに話をしなければならず、大学院の学位授与式にはそれにふさわしい話を考えなければならないので頭の中は混乱する思いであった。
前任の院長は牧師であったから聖書を引用して話をまとめるという手があったが、私にはそのような方法はなく、ホトホト難渋した思いだけがいまもなお記憶に残っている。

◆三笠宮邸訪問
院長代行となって仕事はいっそう多忙になり、会議や面会、事務の処理などに追われる生活が続いたが、時にはふっと気が休まるような出来事に遭遇することもあった。
その1つは、三笠宮邸を訪問したことである。2009年11月、青山学院創立135年と大学開設50年を迎え、盛大な式典と祝賀会を催すことになった。
昭和天皇の弟君である三笠宮崇仁親王はかつて文学部の非常勤講師として古代オリエント史を担当していたという縁で、青学では祝賀会の乾杯の音頭をお願いしたところ、快く応じてくれて、当日はユーモアを交えた簡単なスピーチとともに乾杯の音頭をとっていただいたのである。

数日後、私は理事長とともに、三笠宮邸にお礼を言うために、宮様の好物と聞いている虎屋の羊羹を持参して宮邸を訪問したのである。

青山通りに面している赤坂御用地の南門から御用地内に入ると皇宮警察の署員によって誰何され、用向きを述べると通行が許可される。
うっそうと樹々が生い茂る中を車は進み、右折するとすぐに宮邸に到着。
門番から連絡が入っていたとみえ、玄関口には侍従がすでに待っていてくれている。
玄関に入ると20個ほどの胡蝶蘭の鉢が並んでいて馥郁たる香りで満たされているのに驚かされる。
あとで聞くところによると、数日前が殿下の誕生日だったとのことでその祝いに贈られた花であることを知る。

応接間というより居間風の部屋に通され、待つ間もなく殿下がラフな服装で現れる。昭和天皇と同じ風貌で、話し方はそこらに住むおじさんとなんら変わりなく、ざっくばらんであった。
「都心部なのにさすがに静かですね」と尋ねると、「いや、そうでもないよ。夜になると時折、暴走族が青山通りを突っ走って通り、うるさくてかなわないときもあるよ。いまは静かだけどね」といって、気軽に立ち上がり、大きな窓を開けてくれる。
「この御用地内の森にはカラスがたくさん住み着いていてね。夜になると、銀座方面にエサあさりに出かけ、朝方帰って来るのだよ。
カラスの朝帰りだね」といって笑っておられた。カステラと紅茶をごちそうになり、帰りは玄関まで送っていただいて恐縮したのである。

◆「学生時代」の歌碑建立
「蔦のからまるチャペルで祈りを捧げた日・・」の歌詞で始まる「学生時代」という歌は、青山学院大学の出身者である平岡精二が作詞・作曲をし、同じく学院の出身者であるペギー葉山が歌ったことでも明らかなように、青山学院大学をイメージした歌であり、青学では第二校歌とまでいわれているほどに著名な歌である。
ところが、なぜかこの歌が立教学院をイメージした歌であると喧伝されていた時期があり、カラオケ店で流れるこの歌の背景には立教大学の構内の映像が描写されていることもあった。
私はいまから40年ほど前に立教大学で非常勤講師を務めていたことがあり、大学構内を散歩すると、立教大学の卒業生である灰田晴彦の作詞・作曲、灰田勝彦の歌う「鈴懸の径」の歌碑のあるのを知った。
この歌碑は戦前から設置されているとのことだった。「学生時代」も「鈴懸の径」も日本の叙情歌100選のなかに必ず入っているほどの名曲である。そして「鈴懸の径」については歌碑が学内にあるのに、「学生時代」にそれがない、ないどころか立教の歌として誤伝されていることに腹立たしさを感じたのであった。そこで大学長に就任した際に、「学生時代」の歌碑を構内に作ろうと提案したのであるが、賛成の声はあるものの、いつのまにか立ち消えの状態が続いたのである。仄聞するところによれば、歌謡曲の歌碑を建てることに消極的な考えが一部の有力な校友のなかにあるとのことであった。讃美歌以外は認めようとしない狭量な考え方に反発を感じた私はいつかは実現したいものとひそかに考えをめぐらしていた。

機が熟したのは、院長代行に就任してからである。
当時の理事長はM氏であったが、彼は歌好きであり、私と気性が似ていることもあって、私のいうことを聞いてくれると感じていたので、理事長にペギー葉山が日本歌手協会の会長となった今年がタイミングとして最も適当であると進言し、歌碑設置の承認を得たのであった。

ほどなく法人本部のある間島記念館の前にこの歌碑が建立され、除幕式の際にはペギー葉山とともに参列者全員でこの歌を合唱したのである。

いまは学内名所のひとつとして、主として年配の方の訪れが多いと聞いている。

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