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JRRCマガジン No.222 2020/11/26
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みなさまこんにちは。
今日の東京地方は小春日和で、やさしい日差しに包まれる気持ちの良い天気となっています。
我が子は新型コロナで中止となった遠足の代わりに、
全校プレイデーとして近くの都立公園に行って半日遊んでくるようで、
喜んで登校しました。
その後、TVを見るとNHK連続テレビ小説「エール」の最終話が放送されていました。
本来は、東京オリンピックの時期に放送タイミングを合わせたものでしたが、
歴史ある朝ドラでは初めての放送一時休止や放映後の10話短縮など多難な制作状況でした。
放送再開後は「災い来ても福にする」という制作陣の気概を感じる展開で、
結果、このコロナ禍にいる人々にエールを送り、時とテーマが見事に合致し、
物語は素敵なエンディングで幕を閉じました。
さて、今回我々がお届けするのは半田先生の塞翁記です。
こちらはいよいよ理事長まで務めることとなる青山学院大学でのお話がスタートします。
前回までのコラムはこちらから
https://jrrc.or.jp/category/handa/
◆◇◆半田正夫弁護士の塞翁記━━━━━━
-私の自叙伝19
第11章 青山学院大学教授時代①
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■青山学院大学に赴任
JR山手線の渋谷駅から宮益坂を上がり,青山通り(国道246号線)に抜けると、
やがて右手に青山学院大学のキャンパスが目に入る。
正門から入ると、左右に銀杏並木を侍らせた道が奥に続いており、
突き当りの正面にはローマのパンテオンを思わせるコリント風の建築物(間島記念館)が見える。
これを中心に多くの建物が林立し、幼稚園、初等部、中等部、高等部、女子短大、大学、大学院から成る総合学園が、
学校法人青山学院である。
私がここを最初に訪れたのは、東京オリンピックの開かれる前年、青山学院大学で学会が開催されたときである。
オリンピックに向けて東京が大改造されており、青山通りを走っていた都電が撤去される工事が行われていたころであった。
ブルドーザーなどの喧噪に包まれた青山通りから一歩キャンパス内に入ると、森閑としたたたずまいがあたりを包み、
蔦の葉が建物群にからみつき、まさに当時流行したペギー葉山の歌う「学生時代」そのままの風景がそこに出現したのである。
その時の感動はいまでも忘れることはできない。
学会の昼休みのときに、たまたま居合わせた某大学の教授が、「こんな大学で講義してみたいなあ」と述懐しているのを聴き、
まったく同感と思ったものであるが、いまその大学に赴任し感無量であった。
■担当科目
赴任したてで私が担当することとなった科目は、5コマで以下のようなスケジュールとなっていた。
月曜日 法学(10:35~12:10)
英書講読(13:00~14:35)
ゼミ(14:40~16:15)
水曜日 著作権法(前期)、
教養ゼミ(後期)(10:35~12:10)
民法Ⅱ(14:40~16:15)
わが国で「著作権法」という講義科目を置いていた大学はこれまでにはなく、
「無体財産権法」あるいは「工業所有権法」という科目
(このような科目を置いている大学も当時はほとんど存在しなかった)
のなかでわずかに触れられるに過ぎなかった。
だが、青山学院大学では私のたっての希望でこれを
「工業所有権法」とは別の独立した科目として認知されることになったのである。
ただ当時は、これを通年の4単位科目として設置するだけの材料不足にためらいがあったがため、
半期の2単位科目として承認してもらい、
翌年から4単位の通年開講科目にしてもらったのである。
青山学院大学における講義のほか、金曜日には東京教育大学で民法Ⅱ、民法Ⅲの2コマ、
学習院大学で法学、ゼミの2コマを担当したため、結構タイトなスケジュールとなった。
それでも安定した収入が確保され、さらに自分の家から通えるというのは充足感に浸される毎日であったといえる。
研究室も5号館6階に比較的広い個室が与えられ、自宅から長椅子を持ち込み、
連日この部屋で勉強したり、原稿を書いたり、講義の準備にあてたりした。
赴任した当初、世情は学園紛争の真っただ中にあった。
青山学院大学は院長兼理事長のワンマン体制にあって比較的おとなしい雰囲気ではあったが、
それでも世界中を吹き荒れた学園闘争の火の粉は青学にも降りかかってきた。
日大の学生らのなかばプロ化した学生運動家が青学の学生の助っ人として現れ、
教室の占拠や堅牢なバリケード造りなどを行い、学内は騒然と化していた。
しかし、私が赴任して間もなく沈静化に向かい、講義や研究にはなんら支障はなかったといってよい。
■著書・論文の量産
やっと地位の安定を得た私は、その後、著書や論文の量産体制に入る。
この年、つまり1971年の8月には私にとって処女出版となる「著作権法の研究」が一粒社から刊行された。
これは学位論文となった「著作権の一元的構成について」を柱に、これに関連した2つの論文、
「出版の法理」と「著作物公表権の機能に関する一考察」、
これに「私的利用を目的とする音楽著作物のテープ録音」を加えたもので構成されており、
当初2000部作って発売したが、予想に反して好評で、10年後にはさらに増し刷りするという、
論文集としては異例の売れ行きを示したのである。
発行元の一粒社としては論文集の増し刷りは初めての経験であるとのことであった。
この論文集の上梓をきっかけに、
著書としては、
「著作権法概説」(1974年一粒社)、
「民法177条における『第三者』の範囲」(1977年一粒社)、
「著作権-その制度と権利の実態―」(1979年教育社)、
「不動産取引法の研究」(1980年勁草書房)、
「著作権法の現代的課題」(1980年一粒社)、
「やさしい民法総則」(1981年法学書院)、
「やさしい物権法」(1985年法学書院)、
「物権法」(1986年有斐閣)、
「事例式演習教室・民法」(1987年勁草書房)、
「著作物の利用形態と権利保護」(1989年一粒社)、
「補講民法学」(1989年一粒社)、
「やさしい担保物権法」(1989年法学書院)、
「不動産取引における登記と司法書士」(1993年テイハン)、
「転機にさしかかった著作権制度」(1994年一粒社)、
「やさしい債権総論」(1995年法学書院)、
「マルチメディアと著作権」(1999年著作権情報センター)、
「やさしい契約法」(1999年法学書院)、
「著作権制度の過去・現在・未来」(2001年日本楽譜出版協会)、
「インターネット時代の著作権」(2001年著作権情報センター)、
「銀杏並木と蔦のもとで」(2004年勁草書房)、
「著作権の窓から」(2009年法学書院)、
「著作権法案内」(2014年勁草書房)
などを単行本として出版した。
その他、共著5冊、編著9冊、共編著20冊を出し、
さらに雑誌論文・書評・随想など660本を公表して現在にいたっている。
数多い講義の負担と会議の合間を縫ってよくこのようにできたものと、
自分のことながら感心しているしだいである。
この量産体制は学長に就任して以降、公務・校務に追われ、やっと終息に向かうことになる。
■ゼミ生との交流
大学教員となって以来、赴任した大学、
つまり北海学園大学、神奈川大学、近畿大学、青山学院大学でゼミを担当した。
非常勤で通った学習院大学、早稲田大学でもゼミを受け持った。
それぞれに思い出があるが、青山学院大学の学生との接触が一番長く、また濃密であった。
青山学院大学では、3年次と4年次の2年間同一ゼミを履修し、
卒業論文を提出して10単位をもらえるという仕組みとなっている。
私は1971年に赴任して以来、「和を以て貴しと為す」をモットーに、
ゼミ主催のすべての行事(ひんぱんに開かれるコンパや年2回行われる合宿を含む)に全員参加を義務づけ、
無断欠席は即刻除名するとの約束のもとにゼミ生を募集し、ゼミを遂行してきた。
このように厳しいとも思われる戒律を課したのは、
一生を通じて付き合える友人をゼミ活動を通じて得させようとの私の願いによるものであった。
幸いにもこの思いが学生にも通じ、ゼミの同期生同士はもとより、先輩・後輩間の仲も緊密で交流も多く、
ゼミナリステンは合わせて559名(男318名、女241名)という大所帯の半田ファミリーを形成するにいたっている。
このゼミは1993年2月14日発売の「週刊読売」でも「金融界に抜群の強み―半田ゼミ」の表題のもとに、
全国の著名ゼミ紹介シリーズの青学編で紹介されている。
前述したように、当ゼミではすべての行事に全員参加を義務づけており、
年2回行われる2泊3日のゼミ合宿は、参加者が意気投合し、親密の度合いを深めるのに役立ったようである。
合宿の初日は、夕食後から勉強会を22時頃まで行ったあと、コンパを開始する。
翌日は午前中勉強会。午後はみんなで散歩。夕食後はコンパ。これは翌朝3時頃まで続く。
学生は疲れると部屋に戻ってひと眠りしてまた現れるが、私は一人残って学生と飲みかつ歌い、
歓談するといった超人的な活動ぶりを示して、学生の度肝を抜いたのである。
また、ゼミO生(次年度にゼミに入る予定の2年生)を入れた初めての新歓コンパのさいには、
私が「マジンガーZ」の歌を身振りをつけて熱唱することが宴会を始めるにあたっての恒例行事となっており、
このときばかりはバカ丸出しで、入ったばかりで緊張しきっているゼミ0生の緊張をほぐし、
学生の喝采を受けるのが常であった。
新歓コンパ以外にもコンパは年に5~6回はやった。
そして1次会だけでは終わらず、2次会、3次会と続き深夜に及ぶこともザラであった。
帰りの電車がなくなり、学生が呼んだタクシーで帰ることも一再ならず経験している。
■ゼミ生のためのオープンハウス
青学に赴任してから1月2日にゼミ生のためのオープンハウスを始めた。
その日は、在校生、卒業生を問わず、だれでも自由に拙宅に来てもいいというものであった。
はじめはわずか数名の来訪に過ぎなかったが、評判を聞きつけて年を追うごとに数を増し、
40~50名に達するにいたった。
狭いわが家は立錐の余地もないありさまで、トイレに行って戻ってきたら座る場所がないほどの雑踏をきわめた。
彼らのほうも気をきかせて、早く来たグループの人たちは後から来客が来ると先に帰るという暗黙の了解ができているものとみえ、
混んで困ったということはなかった。
ただ、事前に何人の客が来るか全く予想がつかないため、妻は料理を作るのに大変苦労したようである。
私は当日に備え、暮れの大晦日から部屋のスペースを確保するため家具の移動やら、
障子・ふすまの片付けやらで大わらわであった。
また食器も、たとえば大皿、中皿、コップなどをそれぞれ50個以上も買い揃えなければならなかった。
はじめのころは学習院大学でもゼミを持っていた関係上、
2日は青学、3日は学習院と2日間もオープンゼミをやっていたが、
妻の疲労が激しいため、後者は数年で辞め、前者も高齢で対応できないという理由で、
20数年間続けたあと、これも辞めてしまった。
つづく
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