JRRCマガジンNo.217 塞翁記-私の自叙伝17

半田正夫

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JRRCマガジン No.217 2020/10/8
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※マガジンは読者登録の方と契約者、関係者の方にお送りしています

みなさまこんにちは。
本日はまず事務局からお礼です。
このたびは2020年度使用料の
期限内申請にご協力をいただきましてありがとうございました。
新型コロナでご契約者様への影響も大きい中、
例年通りご対応がいただけたこと、改めて感謝申し上げます。
おかげさまで、委託者のみなさまへは予定通り分配ができる見込みです。
まだ、申請がお済みでない方もおられますが、
どうかご協力を賜りますよう重ねてお願いいたします。

さて、本日は半田先生の塞翁記をお届けします。
北海道からいざ鹿島立ちで上京された先生を待ち受けていたのは
災難、批難、困難・・・。疾風怒濤の時代のお話です。

前回までのコラムはこちらから
https://jrrc.or.jp/category/handa/

◆◇◆半田正夫弁護士の塞翁記━━━━━━
           -私の自叙伝17

   第9章 神奈川大学時代
        
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■横浜での生活

横浜での新居は神奈川区六角橋4-17-6で、神奈川大学職員宿舎のひとつであった。
大学キャンパスの裏手にある学生寮と道路をはさんで向かい側にある小さな2軒長屋の1つであった。
家の前の道路は急坂で、降りる坂の途中で右折すると大学構内に入れるという場所にあったから、
始業のベルを聞いてから家を飛び出しても授業には間に合うという便利さはあったが、
買い物をするには急坂を300メートルほど下まで降りなければならないという点では不便であった。
まして娘はまだ1歳2か月の乳幼児であったので乳母車を使用しており、妻は買い物にかなり苦労しているようだった。
 
与えられた研究室は、図書館の2階にあり、細長い部屋であった。
幸い個室であったが、札幌から運んだ図書で足の踏み場もないありさまであった。
上京した3月30日から家財道具の到着を待つまでの間、横浜グランドホテルに宿泊し、
4月2日に新居に引っ越し完了。3日と4日に研究室の本の片付けを行う。
神奈川大学では全学の教員が集まっての会議を教授会と称し、そこで大学のすべてのことが決せられていた。
私が初めて教授会に出席したのは4月12日である。

当時、国内では大学紛争の嵐が吹き荒れており、ワンマン体制で紛争には無関係と思われていた神奈川大学でも米田氏の学長辞任を契機にしだいに左翼勢力の力が増して時期に当たっていた。
そのためか当日の教授会も15時から始まって終わったのが22時半であった。
なにを議論したのかメモがないので不明である。
授業は、外書購読、民法総則(昼夜)、ゼミ(昼夜)を担当することになり、4月15日の月曜日から開始され、ここにようやく横浜での新生活が軌道に乗ったのである。

■トラブル続き

今から考えると、神奈川大学に来てからの1年間はわが家にとって疾風怒涛の時代であったといえるようだ。

まず、6月に震度6強の地震があったことである。いまでは震度6強の地震程度で驚くこともないが、
六角橋のわが家は急坂の途中にある茅屋で、この程度の地震でもいまにも家が壊れるのではないかと思うばかりに大きく揺れ、
家族3人青ざめて戸棚が倒れないように必死に押さえ続けていたのを覚えている。

また、娘の乗った児童三輪車が急坂を下降し、しだいに加速度をつけ始めたので、あわてて追いかけたところ、
幸いにも横に曲がって石垣にぶつかって止まり、かすり傷程度で済んだからよかったものの、
真っすぐに下降したら、追いかけが間に合わず、大惨事になっていたのではなかったかと、
ゾッとしたこともあった。

さらに9月には、1軒置いて隣にある神奈川大学野球部の学生寮に火災が発生し、しだいに火の粉がわが家に降りかかるようになった。
はじめは雨戸を閉め、その雨戸や屋根に水を掛けていたが、それでも間に合わなくなって、焼失を覚悟し、
娘にリュックを背負わせ、われわれも出来るだけ荷物を持って逃げだそうと準備したが、
幸い風向きが変わり危うく難を逃れたということもあった。

わが家に降りかかった災難はこのような天災だけではなかった。
最大の災難は、神奈川大学に発生した学園紛争である。

当大学の学園紛争は私が赴任したころにはすでにボヤ程度のものは発生していたが、
他大学にくらべると穏やかなものであり、授業にも影響が出るというものではなかった。

ところが、東大、日大などで発生した過激な紛争がしだいに燎原の火のごとく全国の大学にも及び始め、
学校封鎖、バリケードの設置、警官隊との衝突など、過激な様相が各地で見られるようになった。
そしてその余波はついに神奈川大学にも達するに至ったのである。

はじめは学生集会や学内デモ程度であったものが、
米田体制のもとで冷や飯を食わされていた左翼系教員が学生を煽り、
しだいにエスカレートして教授会にも大挙して押し寄せて会議の模様を傍聴、というよりわれわれの言動を監視するようになり、
米田体制を支えたと彼らが主張する法学部教員全員をつるしあげる大衆団交へと発展したのである。

■大衆団交 

当日、法学部教員全員は大教室の壇上に上げられ、500名ほど超満員の学生に囲まれ、10時から23時まで缶詰状態に置かれた。
そして一人ずつ学生の代表者に指名されて前に立たされ、彼らの罵声を浴びながらの自己批判を強いられたのである。
法学部の教員の多くは高裁長官、高検検事正などを経験した高齢の実務家であり、
彼らは学生たちの行動を陰では批判しているにもかかわらず、学生たちの前に立たされると、
学生の言い分をそのまま肯定し、「反省しろ」と言われれば、「はい、反省します」と述べるありさま。

表裏はっきりしたその厚顔ぶりにはただ呆れる思いがしたものであった。
正義を重んじるはずの法学部の著名教授がかくもだらしないのかと義憤に駆られ、
怒りと情けなさにブルブル震える思いであった。
 
やがて私の番がやってきた。
学生の代表は、「お前の講義している民法は資本主義の民法だ。われわれはそれを認めない。共産主義の民法をやれ!」といい、
大勢の学生は「そうだ!」と合いの手を入れる。
私は、「わが国の民法は資本主義体制を前提として出来上がっているのだからそれは出来ない相談だ」と諄々と説くが、
彼らはまったく聞く耳をもたず、共産主義の民法をやれの一点張りで、平行線を辿った。

いままで老教授連に対する暖簾に腕押しのやりとりに業を煮やしていた学生らは、
真正面から反抗する私を格好の相手が見つかったとばかりに、集中的に攻撃の矢を浴びせてきた。
1時間以上に及ぶやりとりの末、彼らは、「お前の講義を聴く気はないから、お前は大学を辞めろ」という始末。
若かった私も売り言葉に買い言葉で、「じゃあ、辞めてやる」と言い、その日のうちに学長に辞表を提出した。

その日の夜、団交の模様を伝え聞いたゼミ生が大挙してわが家にやってきて、「辞めないでほしい」と懇願された。
「先生が謝って前言を撤回すればいいのだから」ともいわれたが、
「自分でできもしない講義をするということにして謝る、そんな先生を君たちは信頼できるのか」と言うと、
「それはできない」、「では辞めるしかないではないか」と言い、泣きじゃくる学生たちと後ろ髪をひかれる思いをしながら別れた。
 
翌日、全学教授会が開かれ、わたしの辞任の件が議題としてかけられた。

事情を知った教授たちは辞める必要はないとの意見が大勢を占め、慰留決議が全会一致で可決された。
1個人教授の進退問題で、しかも全会一致で議決されたのは神奈川大学では前例のない出来事といわれた。
この決議は非常に有難かったが、自分の節を曲げてまで職にとどまること潔しとしなかった私は前言を撤回せず、辞意を翻すことを丁重に拒んだ。

■転居

次の職場もまったく決まらないまま辞表を提出したが、よく考えてみると、住居も大学の宿舎であるから、
大学を辞めればそこを出なければならない、
つまり職と住とを一挙に失うことに気づいていないという迂闊さだった。

事情が事情だけに、心配した新理事長のY教授からは住居が決まるまでは使用して差し支えないとの有難いコトバをいただいたが、
退職しながら大学の宿舎に便々と居座ることもできず、急遽、職場と住宅の確保のために走り回らなければならなかった。

そのころは住宅難の時代に当たっていたため、容易に見つからず、見つかったとしても自費で購入する資力もなく、
金融機関から借金したくても無職となった者は相手にされず、ホトホト困り果てた。
心配した友人がやっと見つけてくれた住居は埼玉の大宮市にある低所得者のための市営住宅であり、
妻と二人で下見に行ってみると、障子や襖は大きく穴が開き、畳は黄ばんでいるうえにボロボロ、風呂場にはゴキブリの死骸がゴロゴロという惨憺たるありさまで、
妻がこんなところに住むのは嫌だと泣き出し、途方に暮れた。

私の運もここまでかと思ったほどだった。

捨てる神あれば拾う神ありの例え通り、東京の小金井市に住んでいる妻の姉から、新聞広告に出ていた建売住宅のチラシが送られてきた。
妻が早速見学に行き、とても気に入ったとのことなので、私も翌日見に行った。

新宿からJR中央線でおよそ30分の武蔵小金井駅で降り、そこから徒歩7分、向かいは墓地となっているところに6区画に分けられた宅地があり、
そのうち3区画に新築の建物が建てられていた。
その3軒のうち公道に面している家が目指す建物であった。
敷地は140平米、2階建て、1階は8畳の和室(床の間付き)、6畳の洋間、7.5畳のダイニングキッチン、2階は6畳と4.5畳の和室各1という間取りであった。
室内を観てすっかり気に入り、業者と交渉したところ、売却代金は900万円、代金の3分の1の支払があれば即入居可能とのことであった。
そこで早速、父宛に速達を送り、いままでの状況をつぶさに記して助けてほしい、すぐ帰札してお願いに上がるからと申し入れた。
そして直ちに札幌行きの便の手配をした。

妻と母との間に嫁姑のいさかいがあったこともあって、父がカネを出してくれるかわからないが、なんとか懇願してみようと、かなりの覚悟で帰札したのであるが、
家に着くと、母が手付金の300万円を黙って差し出してくれた。
気負っていただけに、両親の優しさが嬉しく、一気に緊張が解けて涙がとまらなかった。

つづく
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