JRRCマガジンNo.189 塞翁記-私の自叙伝8

半田正夫

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JRRCマガジン No.189   2019/12/19
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みなさまこんにちは。2019年最後のJRRCマガジンとなりました。
一年間ご愛読ありがとうございました。
来年最初のメールマガジンははお引越しした新しい事務局からお届けする予定です。
しばらく時間が空いてしまいますが、3人の先生の連載は続いていきますのでどうぞお楽しみに。
少し早いですが、皆さまにおかれましても良いお年をお迎えください。

今回は先週に引き続き半田先生の塞翁記をお届けします。
楽しい高校生活もあっという間です。

前回までのコラムはこちらから
https://jrrc.or.jp/category/handa/

◆◇◆半田正夫弁護士の塞翁記-私の自叙伝8━

第3章  高校生時代

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■北大受験

このように遊んだのも高校2年生のときの1年間だけである。3年生になると、入試を控えて猛勉強に入ることになる。
クラスも受験組と就職組とに分かれるように選択科目によって再編成された。
新しいクラスは理数系の科目に重点が置かれた3年1組で、女子の進学率の低かった当時の状況を反映して、われわれのクラスは男子が大部分を占めることになった。
模擬試験も頻繁に行われ、各科目のベストテンが廊下に掲示されるので、勢い競争心に煽られ猛勉強に励んだものであった。
私の成績は3年全体の3番目くらいに位置しており、数学はトップに出ることもあったが、全科目の総合点では3番ということが多かったようである。

当時は、民放ラジオがさかんにディスクジョッキーをやっており、北海道放送(HBC)ではリクエストによる楽曲を放送していた。
24時ごろ始まるこの番組では江利チエミの「テネシーワルツ」が必ず流されていて、私は勉強の手を止めてこの曲を聴くのが習わしとなっていた。

進学する大学は、父が司法書士をしていた関係からか、なんとはなしに法学部に決めていたが、どこにするかは決めていなかった。
東大にするか、京大にするか、あれこれ思い悩んでいたときに、北大に法学部ができることになり、東大の先生が教えに来るのでわざわざ道外に出ることはないのではと忠告するひとがおり、父と相談した結果、北大1本でいくことに決めたのである。

北大1本にした理由は、当時、国立大学の入試は1期校と2期校に分かれ、東大、北大などの旧帝大などは1期校に、旧制高校から新制大学に転換した大学はおおむね2期校に配置されており、それぞれ同じ日に試験が行われることになっていたので、1期校を2つ選択することはできない仕組みとなっていたからである。
北海道で1期校に組み込まれていたのは北大だけ、小樽商科大学、北海道教育大学、室蘭工業大学、帯広畜産大学は2期校に配置されていたのである。

私は道内の2期校で行きたい大学はなく、東京の私大は、家庭内の経済状況から選択する気持ちは全くなかったので、北大1本でいくしかなかったといってよい。
冒険のように思えるが、当時の私はかなり自信過剰で、北大が不合格になるということはまったく考えもしなかったのである。

入学試験は昭和27(1952)年3月3日と4日の2日間行われた。受験番号は801番。
会場に割り当てられた教室は、木造の200名は入ると思われるほどに広い講堂風の建物だった。
試験科目は、国語、英語、数学(一般数学、解析Ⅰ、解析Ⅱ、幾何のうち2科目)、社会(一般社会、日本史、世界史、人文地理、時事問題のうち2科目)、理科(化学、生物、物理、地学のうち2科目)であった。

初日の3日は、国語(9:00~10:30)、社会(11:00~12:30)、数学(13:30~15:30)となんのトラブルもなく進行したが、翌4日の理科(9:00~11:00)の試験中である10時過ぎに地面が大揺れに揺れ、立っていた試験官が立っていれないほどの激しさであった。
会場は騒然とし、われわれは総立ちになり、なかには泣き出す女子もいたほどであった。十勝沖地震と名付けられた地震の発生である。揺れは間もなく収まり、試験はそのまま続行され、無事終了した。
だが、後で聞くと、大学当局は大慌てであったとか。
当時、北大は試験会場を札幌のほか、函館と東京にも設けており、同時に試験が行われていたので、ひとつの会場だけを試験中止とするわけにはいかなかったからである。
道内ではかなりの被害が出たもようであるが、試験には影響がなかったのは不幸中の幸いであり、大学当局は胸をなでおろしたものと思われる。

合格者の発表は3月21日の予定となっていたが、実際に発表になったのは17日であった。
当時点けっぱなしにしていたHBC(北海道放送)のラジオが、「今日の夕方、北大の合格者の発表が行われます。HBCでは合格者の氏名を今夜9時から放送します。」との予告を告げていたのを、たまたま聴取した。
早速、親にそのことを知らせはしたが、夜の9時まで待つことにしびれを切らし、合格発表の場所である北大本部の掲示板を観に行こうと考え、すぐに家を出た。
合格に自信を持っていたとはいえ、万が一のことを考え、友人を誘わず、市電の「東本願寺前」の停留所まで差し掛かると、なんとそこに級友の小西がいるではないか。
彼もラジオで合格発表のあることを聞き、放送を待ちきれずに掲示板を見に行こうとしていたものであった。
こういうときに限って電車はなかなか来ず、二人は「歩いて行こう」ということになって、北大までの約3キロの雪道を歩いて向かった。
途中、国鉄の踏切を横断しなければならないが、そこに差し掛かった際、貨物列車の長い列が通り過ぎるところで、それに道を遮られ、なんとなく不吉な感じがしたものだった。
あとで聞くと、小西も同じように思ったとのことだった。やっと北大にたどり着くと、いままさに掲示板に合格者の氏名と受験番号が墨書された長い巻紙が張り出されようとしているときだった。
転がるようにして掲示板のところに来てみると、文類の合格者から張り出されており、文類志望の私はすぐに自分の名前を見出すことができた。
思わず、「合格した」と叫ぶと、理類志望の小西は、「いいなあ、俺のほうはまだだ」と半泣きになりながら自分の名前を探す。
やがて彼も、「おれも受かった」と叫び、二人で握手を交わす。すぐ帰宅しようと思ったが、小西が「中山先生に報告しに行こう」と言ったので、帰る途中でもあり、寄ることにした。

中山先生は中山周三といい、国語の担当教師であったが、「アララギ」派の歌人として道内でも有名であると同時に、教え方の巧みさでわれわれ高校生に絶大の人気を得ていた先生であった(後年、藤女子大教授に就任)。
玄関で報告して帰る予定が室内に招じ入れられ、話し込んでしまったために、家に帰るのがかなり遅くなってしまった。
すでにラジオで私の合格を知っていた家人は、私が戸を開けるなり、飛び出してきて口々に「おめでとう」と満面の笑顔で叫ぶ。
父の前に立って、「おかげさまで合格しました。」と改めて報告したとき、父は目をうるませて、うんうんと頷いた。
それを見て私は涙が溢れてくるのをどうすることもできなかった。生家が貧乏であったため小学校しか出ていない父は、学歴のないことにかなりのコンプレックスをもっていた模様で、中学出であることを鼻にかけていた知人に対してすら肩身の狭い思いをしていたことを、私は母から聞かされていたからである。

つづく

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