JRRCマガジンNo.177 塞翁記-私の自叙伝3

半田正夫

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JRRCマガジン No.177   2019/9/19
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の方にお送りしています

今年は全国的に雨の日が多いですね。
ダムには十分貯水があるにもかかわらず、
先の台風による被害が大きかった関東地域
では停電により生活用水が不足し、まったく
皮肉なものです。

自然には抗えないですが、ニュースで停電被
害に遭われた方が、

「いままで当たりまえだったものが無くなってしま
っても、地域や人と人とのつながりで、
なんとかそれを埋めることができている。」

と、実感を持ってお話されていて、
日頃から身近なつながりを大切にすることが、
非常時の大きな助けになることを教えられました。

一日も早く日常が戻りますよう願っています。

半田正夫弁護士の「塞翁記-私の自叙伝」第3
回は、のどかだった札幌の街もいよいよ第二
次世界大戦が開戦し、生活全体が戦時色に移
り行く様子が語られています。

前回までのコラムはこちらから
https://jrrc.or.jp/category/handa/

◆◇◆半田正夫弁護士の塞翁記-私の自叙伝3━

第1章 小学生時代

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◆札幌神社の祭り

北海道の総鎮守である札幌神社(現北海道神宮)
の祭礼は6月の15日と16日の2日間である。
祭礼には神輿行列があり、その先導役として
屯田兵の流れを受け継いだ鼓笛隊が通るのが
習わしとなっていた。祭りが近づくと鼓笛隊
の笛太鼓による練習の音が遠くから聞こえて
きてわれわれ子どもたちの心を湧き立たせた
ものだった。祭礼の当日は官庁も会社も学校
も休みで、食卓を飾るご馳走も赤飯と煮しめ
と決まっていたようである。父は昼間から来
客と酒を酌み交わしながら声高に談笑し、
子どもたちはお小遣いをにぎりしめて駄菓子
屋に駆け付け、くじを引いておもちゃを当て
たり、薄荷の入った菓子を買ったり、
パッチ(めんこ)を買って楽しんだりした。

休み明けに担任の教師が「お小遣いをいくら
もらったか」を皆に尋ね、みんなが20銭とか
30銭とか言っているのに、ある級友が20円と
言ったので、教師がびっくりしたのを思い出す。
その子は、学校の前に広大な邸宅を構える土
建屋の一人息子であった。

お祭りの期間中は、街角に「札幌神社例大祭」
の大きなのぼりがはためき、町内のいたると
ころに造花で彩られた提灯が吊り下げられ、
夜になるとそれに灯が点されて祭り気分が一
層高まった。市内のほぼ中央、市内を東西に
分けるための人工の川である創成川をまたぐ
形でサーカスなどの見世物小屋が建てられ、
ジンタの音色が響きわたって、客を呼び寄せ
ていた。見世物小屋のなかには巨大な円筒形
の張りぼての中をオートバイがぐるぐる回る
ものとか、「親の因果が子に報い~」の呼び
込みで客寄せを行うゲテモノ的なものとかが
立ち並んでいたが、なかには木下サーカス、
木暮サーカスなど大掛かりなテントを張る一
座もあり、屋台の店も多く立ち並んで喧噪を
きわめる。

サーカス小屋に入ると、足元の隙間から創成
川の清流が音をたてて流れるのがみえ、
なかなかに風情のある情景だった。
終戦後しばらく経ったころ(昭和34年)、
大きなサーカス小屋が白昼火事に包まれ、
黒鉛をあげて燃え盛る小屋から逃げ出した象
が川の中に入って鼻で水をすくっては身体に
かけているのんびりした映像が写真に撮られ、
それが新聞にスクープされたことがあった。

◆国民学校への再編成

昭和16(1941)年4月、学区再編成により、
西創成小学校から豊水小学校に移った。
と同時に、豊水小学校は豊水国民学校へ
と改称された。
これは同年に施行された「国民学校令」と
いう勅令によるものであった。

この勅令は、
「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通
教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」
ことを目的として、
従来の小学校を改組したものであった。

教科書も大幅に変わり、たとえば国語など
においては、戦時色の強い、また日本は神
国であることを強調するような神がかり的
な内容のものが多く占めるようになった。
太平洋戦争(当時は大東亜戦争と呼んだ)が
始まったのは同年12月8日であった。

そのころ私は急性肺炎で近くの病院に入院
していたが、窓の外を見ると,各戸に日の
丸の旗が掲げられているのが望見できた。
当時、国家的な記念日があると、家ごとに
国旗を掲げるのが義務付けられていた。
いわゆる旗日である。しかし、その日は
そのような旗日でもないのに旗が立てられ
ているのが不思議だった。付き添いの祖母
に聞いても、「どうしてだろうね」という
ばかりで、さっぱりわからなかった。
だが、その疑問は間もなく解消された。

見舞いに来た隣家のおばさんが、
「アメリカと戦争に入ったのだよ」と教え
てくれたからである。

私は今にも米軍機が北から空襲にやって来
るのではないかと脅えたが、大人たちは意
外に冷静で、心配ないと取り合ってもらえ
なかった。やがてラジオの臨時ニュースで、
ハワイ真珠湾に日本海軍が猛爆撃を加え米
国太平洋艦隊を全滅させたとの報道が伝え
られ、さらにマレー半島沖で英国の誇る不
沈戦艦と言われた戦艦プリンス・オブ・ウ
ェールズとレパルスを撃沈したとのニュー
スが伝えられると、飛び上って喜んだのを
覚えている。

新聞を読む習慣がついたのも、連日新聞を
賑わせている皇軍の活躍を見るのが楽しみ
であったからである。戦果の報道はまずラ
ジオニュースによってもたらされる。
通常番組を突然中断して勇壮な「軍艦マー
チ」か「抜刀隊」の音楽が流れる。
前者は海軍の戦果を、後者は陸軍の戦果を
報じるテーマ音楽だったのである。
そして音楽が終わると、
「ただいまから臨時ニュースを申し上げます」
のアナウンスが入り、戦果が告げられ、
私はラジオにかじりつきながら歓呼の声を
上げたのである。

太平洋戦争が始まってから校内は戦時色が
しだいに強くなった。昼休みの時間は全校
生徒が運動場に集合して分列行進の練習が
毎日行われたし、体育の時間には棒倒し、
騎馬戦などの集団格闘技を中心とするもの
が多く取り入れられた。学校の授業でとく
に興味を引くようなものはなかった。

算数は面白かったが、理科は無味乾燥で、
「〇と×を混ぜるとどうなるか」といった
質問形式の叙述のみで、解説はもとより解
答も記されていなかったから、家に参考書
などまったくなかった私としては勉強する
手がかりすらつかめないありさまだった。
音楽の時間は抒情的なかつての唱歌が影を
潜め、
「工場ダ機械ダ クルクル回ルヨ クルクルクルクル」
などいった面白みもなんにもない歌とか、
米軍爆撃機B29の爆音などの識別訓練とか、
で占められるようになり、
音楽好きの私ですら、当時音楽に対する興
味を失ったほどだった。
ただ歌が好きだったため、ラジオから毎日
のように流れてくる軍歌などの勇壮な歌は
すぐ覚えて家の中ではいつも歌っていたよ
うである。

運動会は私の嫌いなもののなかの一つであった。
徒競走ではいつも後ろのほうで入賞したた
めしがなかった。1位から3位までの者はノ
ートとか鉛筆などの賞品をもらって得意顔
でいたが、私がもらうことはなかった。
学芸会でも出番はまったくといってもいい
ほどなかった。クラスで桃太郎などの劇を
するときも、幕の陰で合唱する役目が与え
られるにとどまった。

◆戦時下の国民学校

こんな私ではあったが、一度だけ目立つ
ときがあった。
4年生のときだったと思う。私の隣に転校
生が入ってきた。ちょうど国語の時間だっ
たことから、担任は、「半田、歓迎の意味
で朗読しなさい」と私が指名された。
その箇所は、「日本海海戦」の詩であった。
七五調の歯切れのいい文章を気に入ってい
た私はかねてから何度も自宅で朗読してい
たので、まさに望むところであった。
教科書を開けなくても空で言えるくらいだ
ったので、抑揚をつけ、間合いを開けて音
吐朗々と朗読した。
担任は、「うまい、もう1回読め」の繰り
返しで、結局4~5回読まされた記憶がある。
担任には単に朗読のうまい子として印象
づけられたようであった。

皇室の某宮家の妃殿下2人が来校されるとの
話が出て、その1か月前から校内では大掃除
が連日行われた。校舎は木造の古い建物で
あったので掃除といっても限度がある。
それでも廊下をクラス別に範囲を区切って
「たわし」で水洗いするという作業が実施
された。われわれは連日、荒縄で作った
「たわし」を持参し、放課後、水をまかれ
た廊下をはだしで1列に並んでゴシゴシこす
るという、いわば水兵が軍艦の上甲板を清
掃する形を再現したのでる。とくに隣のク
ラスとの争いは激しく、境界線あたりを念
入りに磨き上げたため、その箇所はきれい
だが、他の箇所はそれほどでもなく、廊下
はまだら模様となって、かえって汚くなっ
たようである。
来校(当時、皇族の来校は行啓といった)
当日は1時間以上も前から正門前に整列さ
せられ、車の通過を最敬礼で見送ったもの
であった。

本庄繁陸軍大将(終戦後,割腹自殺)
が来校したときは、全校生徒が校庭で分列
行進を行い、その後大将の講演を直立不動
の姿勢で聴かされた。真夏の強い日差しが
照りつける中であったので、倒れる者が続
出し、そのたびごとに大将は講演を中止し
て、「そこ!ここ!」と怒鳴り、
教師が「はい!」と答えてその場所に吹っ
飛び,児童を医務室に運ぶという情景が繰
り広げられた。当時、栄養状態がよくなか
ったので、児童は炎天下に耐える体力に乏
しかったのである。「撃ちてし止まん!」
という掛け声は勇ましかったが、国民の実
態はその程度でしかなかったといえる。

つづく

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