JRRCマガジンNo.203 塞翁記-私の自叙伝12

半田正夫

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JRRCマガジン No.203 2020/5/14
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※マガジンは読者登録の方と契約者、関係者の方にお送りしています

みなさまこんにちは。
一日も早い経済活動と学校の本格再開を待ちわびるところですが、
テレワークも定着し「今日は○時からテレカンね。」などという言葉が普通に飛び交うようになりました。
教育の世界でも一気に加速し、連休明けから本格的にオンライン授業を始めた学校が増えました。
塾ではこの流れに先立ってオンライン授業が積極的に行われていましたが、回を重ねる毎に改良されていき、
我が家のケースではありますが、
今では子供も躊躇なく取り組めるようになり、画面の前で挙手をし先生が指して答えるというやり取りがとても自然にできています。

事務局には各種教育機関からオンライン授業目的での著作物利用について問い合わせが増えています。
授業目的でご利用の際にはまずはこちらのサイトをご活用ください。
【一般社団法人授業目的公衆送信補償金等管理協会 SARTRAS】
⇒https://sartras.or.jp/

なお、従前の通り、著作権法35条第1項の要件に合致しない利用、
いわゆる「教育現場での著作物利用に関するガイドライン」の範囲を超える利用のことです。
(授業目的外の職員会議やPTA、地域活動など)このような場合には許諾が必要です。
著作物の権利委託を受けている管理団体、もしくは権利者から許諾を得るようお願いいたします。

さて、お待たせしました今回のコラムは半田先生の塞翁記です。
大学院進学を決めた先生は肺結核を患ってしまいます。
教授会の下した結論は、「入学を許可する。ただし、即日休学を命ずる。」というものでした。

前回までのコラムはこちらから
https://jrrc.or.jp/category/handa/

◆◇◆半田正夫弁護士の塞翁記━━━━━━
           -私の自叙伝12
第5章 大学院生時代

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■ダブル入院

4月になり、私は北大に入院した。入院とはいえ、大学院ではなく、大学付属病院のほうという皮肉な結果となったのである。

病巣は、左肺上葉に5ミリ程度の空洞があるとのことであったが、自覚症状はまったくなく、自分自身でも病人であるということがにわかには信ずることができなかった。
そこで医学書をいろいろ買い求め調べてみると、初期の段階では自覚症状がなく、それが現れてくるとかなり悪いのだと知らされた。
血沈は40~50と悪く、X写真ではどの医者がみても明らかに結核であるというので、それを信用するしかなかった。
ただ思えば、最近疲れやすく、勉強していても以前ほど根気がなくなっていたことがあり、これが予兆であったようである。

病室は6人部屋。午後に2時間ほど安静時間があるだけであとは自由。
テレビが病室にはない時代であったので、ラジオを聴きながら読書をするだけの単調な毎日であった。
時折、大学院に進学した友人が見舞いに来て彼らの様子を聴くたびに、ひとりむなしくベッドに横たわる自分が置いてけぼりにされる焦燥感にさいなまれた。
幸い三者併用の薬物治療は効果をあらわし、3か月を経過するときには空洞が狭まり、素人目にもよくなっていることが明らかとなった。
そこで医者と相談して、退院と復学許可の承諾を得て、復学の手続きを取ることができた。
ところが復学してみると、友人との学力の差は歴然としていて、追いつくための猛勉強が必要となった。
その結果はまた悪化して再度休学するという状態を数度繰り返す羽目となった。

そのころ、国家公務員上級職試験が行われ、友人が受験するのにつられて一緒に受験し、筆記試験は合格したものの、今度もまた健康診断で振られという結果となり、
このままでは自分の将来はダメになるのではないか、思い切って外科療法に切り替えたらどうだろうかと考えるにいたった。
それを後押ししたのは、宮崎先生に呼ばれ、「徹底的に直せ」との厳命であった。

肺葉手術の実績のあるのは札幌医大であったので、札幌医大に入院の手続きをとり、
その旨を宮崎先生に報告に行くと、「そこまでしなくてもいい」とあわてたようすであった。
手術が失敗してそれが自分の発言に起因するととられたら困ると思ったようだった。
しかし私の決意は変わらず、札幌医大胸部外科に入院した。
札幌医大付属病院は当時、外科部門においては北大を一歩リードしているとの評判が高かった。
のちに心臓移植手術を日本で最初に手掛けて話題となる和田寿郎教授の令名はつとに高かったが、
肺結核の手術部門においても地味ではあるが道内では一番の定評があった。

■肺葉手術

幸いに私の病巣は左肺の上葉部分に限られていたので、その部分の切除で済むというものであった。
現在であれば部分麻酔で病巣の箇所だけを遠隔操作で切除できるのかもしれないが、当時は全身麻酔で、肺葉すべてを取り去るという方法が採られていた。
私が手術を受ける数年前までは肋骨を数本取り去って病巣部分を圧し潰すという原始的な方法が採られており、
退院後も身体が傾いてしまうという状態になっていたことを思えば、格段の進歩といえた。

手術そのものは全身麻酔ということもあり、苦痛は麻酔のさめた後もさして感じられなかったが、かえって術前に行われた気管支鏡検査のほうが苦痛であった。
ベッドの上に仰臥し、頭をベッドの端から垂らし、口と気管支を横一直線にして口から金属製の固いパイプを肺まで挿入して病巣をカメラで観るという原始的な方法である。
おそらく現在では屈折可能な細い管の先端にカメラを設置して観るという、胃カメラと同様の方法が採られているのだろうが、
当時はまだそのような方法が開発されていなかったので、部分麻酔を施しているとはいえ、かなり苦痛を強いられるものであった。
死ぬ思いというのはこのことではなかったかというほどの辛いものであったことをいまでも痛烈に記憶している。
手術はみごとに成功し、長年私を苦しめていた病巣が完全に撤去されたので気分は爽快。ひたすら疲弊した身体の回復をまつだけとなった。

このころ現在の妻と知り合うようになったのである。

妻は私より少しのちに同じ病気で入院し、手術もいわば相前後して行った、いわば同士である。
病室は男子と女子とで大きく離れていたが、退屈している男子患者の間では女患のうわさはすぐ広まるもので、
彼女が入院したとき美人が入ったということで大騒ぎとなり、交互に顔を見に行ったものである。
私もその一人で、会った瞬間、このような人と付き合えたならいいなあというのが第一印象であった。
最初に話を交わしたのがどういう状況下で、なにを話したのかという点になるとまったく記憶がない。
ただ私はしだいに彼女にのめり込み、退院後も手紙を出し合ったりして交際を始めたのである。
いまのようにメールなどない時代であったので、連絡はもっぱら手紙。
こちらは毎日投函するが、彼女からの返事は2~3通に1回の割合であったと記憶する。

■大学院に復帰

病を癒えて完全に回復した私は、後顧の憂いなく研究に専念することができることになったが、今度は研究テーマとして何を選ぶべきかについて大いに悩むこととなった。
研究テーマいかんは将来の自分を決定する要因であることは間違いないからである。
研究者となるためには、まず手始めに修士論文にいいものを書くことが前提となるが、テーマがまったく決まっていなかったこともあって、テーマをどうするか、
いい論文が書けて研究助手に採用してもらえるか(当時、北大では修士課程を修了した者に研究助手になる途が開かれていた)、
僥倖にも助手になったところで任期3年の間に学会で評価されるような論文が書けるだろうか、書けたとしてそれが認められてどこかの大学に採用されることがあるだろうか、
考えれば考えるほど暗澹たる思いに浸されて朝まで眠れずに過ごすことも多々あったようである。いま考えると、私の人生なかで一番苦しい時期であったかもしれない。

■修士論文
 
当時、北大法学部には「民事判例研究会」というものがあって、最高裁の判例を1つずつ取り上げて検討していた。
参加者は北大法学部の教授・助教授・助手、他大学の教官、大学院学生であり、院生はこれに参加することが単位取得の要件とされていた。
参加者全員が判例を分担して報告をすることになっていたが、院生の割り当てが一番多く年間5本ぐらいであったようである。
1回の研究会で3件の判例研究が行われ、意見が出尽くすまで議論するというもので、時にはかなり遅い時間まで会が終わらないということまであった。

この研究会で私は割り当てられた判例の研究に他人より多くの時間をかけて準備することに努めた。
それもただ判例の流れや学説の紹介にとどまらず、自分なりの独自の見解を入れるように常に試みることをした。

あるとき、不法行為における損害賠償の範囲に関する判例を報告した際、五十嵐教授からそれは修士論文にふさわしい内容だと褒められ面目を保ったが、
のちに修士論文のテーマについて五十嵐教授に相談したところ、教授はこのことを覚えていたとみえ、この問題を扱ってみたらどうかと勧められ、
教授がドイツ留学の際に入手したケメラー教授の講演要旨をまとめたパンフレットを手渡されたことから、この問題を取り上げることを決めた。
私はケメラーのパンフレットを読み,併せてドイツの不法行為法の勉強をする一方、わが国の不法行為に関する大審院・最高裁はじめ下級審判例を渉猟し、
その数およそ100本に及ぶ判例を読んで、その特徴を検討し、さらに刑法における相当因果関係の学説を参考にしながら論文をまとめた。

その間、ざっと2年はかかったろうか。
題名は、「損害賠償範囲における相当因果関係」についてであったと記憶する。
五十嵐先生からはこれに手を入れて北大法学論集に掲載したらどうかと勧められたが、自分自身あまりいい出来とは思われなかったのでためらっているうちに、
東大の平井宜雄教授(当時、東大助手)が同様の部分で素晴らしい論文を発表したのでタイミングを失い、掲載を辞退した。

つづく

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