JRRCマガジンNo.231 塞翁記-私の自叙伝22

半田正夫

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JRRCマガジン No.231 2021/2/25
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みなさま、こんにちは。
ここのところ花粉や黄砂が来始めており、風が砂を巻き上げたり
寒暖差が気になる季節になってきました。皆さまは対策は大丈夫でしょうか。

さて、今回の自叙伝は大学キャンパスでの普通では味わえない様々なエピソードです。
どうぞお楽しみください。

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◆◇◆半田正夫弁護士の塞翁記━━━━━━
           -私の自叙伝22
第12章 大学点描
        
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大学教授として長年大学に席を置いていると、ふつうでは味わえない様々な経験をすることがある。
ここでは、すこし脇道に逸れて、そのようなものをいくつか取り上げてみたい。

・早大法職課程教室での体験
いまから40年ほど前、早稲田大学の法職課程教室の講義を依頼された。司法試験の受験者数がピークを迎えていたころでもあって、400名は入るかと思われた大教室の座席は満員、左右と後ろの壁や通路までもぎっしり、文字通り立錐の余地もない盛況のなかを講義するという栄に浴した。
当時の一般の大学における講義は私語の多いなか不愉快な気持ちで行うのが通例であったが、この法職課程だけは違った。合格しようとの目的意識をもった集団のためか、熱気が溢れ、大教室にもかかわらず肉声が通るほどの静けさであった。
雰囲気にすぐ乗る私は気分をよくして熱弁をふるうこと約30分。それまで水を打ったように静かであった教室は突然ガチャガチャという騒音に包まれた。
なにごとが起きたのかと思いきや、なんとこれは録音テープの面を切り替える音であったのである。気が付いてみると、約半数以上の学生が録音機器を持参していたのである。

またときには、息抜きに脱線しようと考え、「これは余談ですが・・・」といいかけると、途端にカチャカチャとスイッチを切る音の大合唱。余談など録音したくないというわけで、しらけてしまって、あとの言葉に苦しんだ苦い記憶がある。

・学習院大学の試験答案
学習院大学の非常勤講師を務めていたことがある。
前期の定期試験が終わったある暑い夏の日、当時我が家ではエアコンがなかったので、ランニングにステテコという姿で団扇を使いながら書斎で仕事をしていると、玄関で呼び鈴の音、郵便か宅配かとステテコ姿のままドアを開けると、一見、侍従と思しき品のいい老紳士が暑い日差しのなか、黒っぽいスーツに身を固め、白い手袋をはめた手には紫色の大きな風呂敷包みをうやうやしく捧げ持って立っていて、「学習院から参りました」と言ったので仰天。
実は彼は学習院大学の職員で非常勤講師の私のために試験答案用紙を自宅まで持参しただけであったのだ。
そうとは知らず、すっかり舞い上がってしまった私はステテコ姿のままドギマギしながら応対したのである。
おそらく無様な姿に映っただろうが、彼は謹厳そのものといった様子で笑いもせず帰っていった。あとで答案をみていた私はその中に某皇族の名を発見して、再び仰天した。

・落城の賦
いまは筑波大学と名を変えてつくば市にキャンパスを設けているが、かつては東京教育大学という名称で東京は大塚にメインキャンパスを設けている大学があった。
その名の通り教員を主として養成する国立の総合大学であったが、文学部の社会科学学科のなかに、法律政治学専攻コースがあって、1学年20名ほどの学生が在籍していた。
講義科目は法学部のある大学と異なるところはなく、当然のことながら法律学関係の専任の教員がいて講義を担当していたのである。
ところが、この大学が学園紛争に巻き込まれそれが長期化したのである。学生はもとより教員もかなり左傾化していたことから政府筋ににらまれることになり、1978年に廃校となった。
そしてそれに代わる大学として筑波大学が創設され、この新しい大学の建学の精神に賛同した者のみが採用を認められることになったのである。
そのために筑波大学の方針に反対する教員は相次いで退官し、他に職を求めるという時期があったのである。
そのような時期に東京教育大学の某教授(その教授も間もなく退官する)から在籍する学生のために非常勤として講義を担当してもらえないかとの依頼があった。
引き受けてキャンパスに行ってみたところ、驚いたことに、専任の教授たちは櫛の歯を引くように今日は一人、明日も一人というように辞めていき、研究室はもぬけの殻という状態であった。
まさに落城寸前の様相を呈していた。大学がつぶれるというのはこのようなものかと嘆じたところである。教授たちは他の教育機関に移るからよいとして、かわいそうなのは学生たちである。
履修したい科目があっても教える専任の教授たちが不在になってしまったからである。
そこで私たち非常勤講師の出番となるわけである。私は1971年から5年間民法の2コマを担当し、小教室で彼らと膝附合わせの形でともに学んだのである。
熱心に受講する学生の姿をみて感動すら覚えたほどであった。
教育大学を最後まで支えたのは当大学で禄を食んでいた専任教授ではなく、当大学にはなんの義理もない非常勤講師たちであったことを忘れてはなるまい。

・三笠宮崇仁親王とカレー
 青山学院大学の4号館の地下にかつて教職員専用食堂があった。
ある日のこと、私は午前の講義を終えてこの食堂に昼食をとりに行った。ちょうど昼食時であったため手狭な食堂は満席。相席でもいいと目で探していたら、ひとつのテーブルだけ4人掛けのところに一人の教員が食事をしているのが目に留まった。
ラッキーとばかり、その空いている椅子に直行し、座ってから前で食事をしているひとの顔を見てびっくり。それは三笠宮崇仁親王であったのである。
混んではいてもみな相席を遠慮していたからこそ、そこが空いていたのだとはじめて合点がいったのであるが、いまさら後にはひけず、そこに座ったのである。
殿下はカレーライスを食していた途中であったが、手を止められて、ていねいに会釈され、どちらが皇族かわからないありさまであった。
当時、殿下は青山学院大学の文学部に古代オリエント史の非常勤講師として講義に来られていたのである。食事後、殿下はまたていねいに会釈されて席を立たれたのであり、さすがにやんごとなき人は育ちが違うと感心したのである。
 
三笠宮崇仁親王にはその後、お目にかかる機会を得たのであるが、そのことについてはまた後に触れることにしよう。

・箱根駅伝予選会の思い出
私と青山学院大学陸上競技部との関わり合いは、法学部のK教授が定年退職するにあたり、それまで長い期間陸上競技部の名部長として多くの学生や校友から慕われていたその職を退くことになり、私がその後を引き継ぐことになってからである。
いまから30年ほど前のことである。運動神経が鈍く、運動会が大嫌いであった私が引き受けたのは、当時、K教授とは歳こそ違え、M教授を含めて親しく接しており、酒を酌み交わしたり、安房鴨川の別荘マンションの同じフロアの部屋を共に買って家族ともども教授ご夫妻と交遊したりした縁から、教授に懇望されたことによる。
その当時の青学の陸上競技部I監督の懸命な努力にもかかわらず箱根駅伝本戦への出場は雲の上の存在で、到底かなわない夢のようなものでしかなかった。大先輩たちが折々私のところを訪れ、なんとかしてほしいと懇願されても、法学部の一教員過ぎない身の上ではいかんともすることができず、期待されることが重荷に感ぜられる状況が続いた。
転機が訪れたのは、私が大学長に就任してからである。大学長として、地方の校友会支部総会に招かれることが多く、その際、決まったように箱根駅伝のことが話題になった。
過去の華やかな時代のことを語る者もいれば、最近の低迷ぶりを嘆く者もいるが、日ごろ疎遠の間柄になっている校友同士の共通の話題といえばまさにこれに限られていた。
硬式野球部が東都大学リーグで優勝しようと、バレーボールやバスケットボール部が全国制覇を遂げようと、箱根駅伝の話題の前では霞んでしまうほどだった。
そこで全国の校友を奮起させ、青学に対する愛校心を高めるためには、陸上競技部の強化以外にはないと痛感するにいたった。
私が採った方法は、これまでのスポーツ推薦制度とは別に特別強化部指定制度を設け、すべての校友がひとしくその活躍を望んでいる運動部いくつかを指定し、それを強化するというものであった。
そしてとりあえず陸上競技部、硬式野球部、ラグビー部の3つを指定し、各学部5名程度の定員枠を大学長に提供していただきたいと要請したのである。
しかし、この提案は法学部と国際政経学部の同意を得て計8名の提供があったものの、他学部の同意を得るにいたらなかった。
8名を上記3つの部に分散してはその効果は期待できないと思われたところから、当分の間は全員を陸上競技部(中長距離部門)に割り当て、箱根駅伝出場を目指そうと図った。
そしてこの際、監督を交代しようとし、先輩の某氏から原晋氏の紹介を受けた。
彼と1対1で面接を行ったところ、こちらの思いと彼の熱意が合致し、彼に任せようと採用を決めたのである。
原監督はだらけきった部の立て直しのために大変な苦労をされたようであるが、先輩たちの熱い協力のもと、青学陸上競技部は着実に力をつけ、2009年1月の箱根駅伝に出場を果たすという快挙につながったのである。
いまもなお鮮やかに思い出すのは、その前年の2008年10月18日午前11時、雲ひとつないほどに晴れ上がった立川の国立昭和記念公園である。
本戦出場を決める最後の枠にようやく滑り込んだ時の感動は、そこに居合わせた者でなければ味わうことのできない激しい熱狂的なものであった。監督とともに私も胴上げされ、互いに抱きあって涙を流したものだった。
その後の青学陸上競技部の活躍ぶりは、私がいうまでもなく読者のほうが存じていると思うので、ここでは省略したい。

つづく

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