JRRCマガジンNo.182 塞翁記-私の自叙伝5

半田正夫

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JRRCマガジン No.182   2019/10/24
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新天皇陛下の御即位を公に宣明されるための即位礼正殿の儀も終了し、本格的に令和時代を迎えました。
新時代の訪れをリアルタイムで目に焼き付けることができ、皆様におかれましても、貴重な記憶として残ることでしょう。

一方、好評をいただいております半田先生の塞翁記は今回、中学生時代に入ります。ちょうど終戦を迎えた頃のお話です。
時代の変わり目をどのように受け止めるかは各々の置かれた状況に大きく影響を受けるのだと痛感します。

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◆◇◆半田正夫弁護士の塞翁記-私の自叙伝5━

   第2章  中学生時代

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◆中学入学のころ

昭和20(1945)年4月、私は私立の北海中学に入学した。本当は札幌一中を狙っていたのであったが、残念ながら入試に失敗したのである。
一中に入るためにそれなりに勉強したつもりであったが、当時は筆記試験がなく口頭試問のみであった。
順番が来て試験場に入り、受験番号と氏名を大声で述べて試験官の前に立つ。二人の試験官が無表情でこちらを見ている。
その途端、試験官はおもむろに「君の洋服のボタンが1つ外れている」と指摘。「しまった」と思ったがもう遅い。
服装の乱れに厳しい時代であっただけに、「もうあかん」と観念した。あとはなにを聞かれているのか、さっぱりわからないほど上がりっぱなしだった。結果は予想通り不合格。
親の期待を裏切り自分ながら情けない思いをしたものだった。生まれて初めての挫折だった。
そこでやむなく第二志望の北海中学に進学する羽目となった。
国民学校卒業時の記念写真が2枚手元にある。
1枚はクラス全員の集合写真。もう1枚は中学校や工業学校などの上級学校への進学が決定した者の写真である。
それによると、クラス総員は68名、進学者は35名。半分は小学校だけで学業を終えたことになる。

北海中学は、応援歌に「裏の藪から猛者(もさ)が出るよ」の言葉があるようにバンカラ気風の満ち溢れた学校であった。
中学に入った時期が太平洋戦争の末期に当たっていたから、授業は体育、柔道、剣道、柔剣道、作業が大半を占めており、
あまり勉強をしたという記憶がなかった。ただ不思議なのは、「鬼畜米英」というスローガンが巷で叫ばれ、
英語を追放することが一般の風潮で、野球の「ストライク」「ボール」が「よし」「だめ」と言い換えられたりしていたにも関わらず、
英語の授業があったことである。
私の思い違いかと思って当時の通知箋を探してみたら、たしかに英語の成績が「優」と記されているのを見つけることができたので、
まさにそのとおりであったのである。
英語の追放という政府方針は意外に不徹底であったのをこの一事でも知ることができる。

登校時、われわれは頭に戦闘帽、足にゲートルを巻くというスタイルで臨んだが、上級生に対しては軍隊式に挙手の礼をしなければならないことになっていたため、
学校に近づくと手の上げっぱなしで往生したものだった。

中学では銃器部に入った。部室には三八式歩兵銃が1挺保管されており、いざという場合にはこれを守ることが義務付けられていた。
実弾はたしか無かったように思われる。三八式銃は明治38年の製作になる銃で日露戦争当時の日本軍の正式銃であり、
各中学に1挺ずつ国から貸与されていたもののようである。単発であるから、太平洋戦争の末期では旧式で実戦の用には立たないしろものとなっていたが、
われわれはそれを後生大事にまもっていたことになる。銃器部の部員であることの利点は、毎日昼食後に行われる応援歌練習へ参加を免れたことである。
応援歌の練習は上級生による下級生いじめの場であり、軍隊並みのしごきがなかば公然と行なわれていたものである。

◆陸軍幼年学校受験のこと

ある日、朝礼のあと1年生全員が集められ、配属将校から陸軍幼年学校受験の希望者がいるかと問われた。
手を上げない者は非国民といわれた時代なので、全員が手を挙げたのはいうまでもない。
満足げにうなずいた将校は、「それでは、学内選考を行う。」と言い、われわれは教室に戻されて、筆記試験が実施された。
問題で唯一覚えているのは、「赤貧洗うがごとし」の意味が問われた問題であった。それから1週間ほど経ったころ、
授業中に私は配属将校からの呼び出しを受けた。職員室に行くと、大きな部屋の隅に陣取ってあたりを睥睨していた将校が、
私が近づくのをじっと見ていて、直立不動の姿勢で敬礼をして、「1年丁組 半田正夫が参りました。」と申告するのを聞いて、
「お前が半田か。学内選抜に合格した。
追って幼年学校の入学試験があるので、その日程が決まりしだい連絡する。それまで待て。」との示達があった。

聞くところによると、学内選抜でパスしたのは2名のみであったとのことである。
だが、間もなく終戦となって試験を受けに行く機会を失することになる。

◆終戦の日

終戦の詔勅は
昭和20(1945)年8月15日自宅で聴いた。
その日の朝、ラジオで正午に天皇陛下がお話になるとの予報が告げられていたので、
その時間に両親はじめ家人はすべてラジオの前に直立不動の姿勢でいまかいまかと待った。
なにしろ当時、天皇は現人神と言われており、顔を見ることはおろか、声を聴くこともなかったので、どんな放送がなされるのかと興味津々であったのである。

やがて正午の時報とともに、天皇陛下の声がラジオを通じて流れてきた。声はあるときは甲高く、ある時は異様に低く、難解な言葉が飛び出してきて、
さすがに天皇はわれわれ常人とは違って神様なんだなあと感じながらも、意味はまったく不明であった。
隣に立っている父に「なにを言っているの」と聞いたところ、「戦争に負けたんだよ」とポツリとつぶやいたので、はじめて戦争に負けたのだということを知った。

外に出ると、真っ青の空の下、街中は森閑としてまさに無人の巷であったような気がした。
近くに住む小学校の担任の家に行ったところ、予備役軍人の教師は、号泣しながら、「このままではすまない。必ず復讐してやるぞ。」と叫んでおり、
それがそのまま当時の私の考えと同じであったのを覚えている。

つづく

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